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RESEARCH BRIEFING · AI × CRYPTOGRAPHY

Claude が暗号アルゴリズムの数学的弱点を発見した——その中身と、しなかったこと

Anthropic Frontier Red Team「Discovering cryptographic weaknesses with Claude」(2026年7月28日公開) を一次情報として、記述を1件ずつ照合した解説

1要点

Claude Mythos Preview が、暗号の「実装のバグ」ではなく「アルゴリズムそのものの数学的欠陥」を2件発見した。いずれも現行の本番システムには影響しない。

264 → 238
HAWK-256 の鍵回復コスト(想定値→実証値)
60時間
HAWK 攻撃の発見・開発・検証の総所要時間
200〜800倍
7ラウンド版 AES-128 への攻撃高速化
約10万ドル
各成果あたりの API 費用
著者自身の位置づけ

「これらは実質的な研究上の進展だが、現時点でいかなる本番システムにも影響しない。この結果によって変更を要する製品ソフトウェアはない」。さらに結論部では、両攻撃を「想定内(expected)の結果」と評価している——NIST の標準化プロセスは元来こうした欠陥を配備前に発見するためのものであり、AES 側もラウンド削減版攻撃という長い研究系譜の延長にある、という理由による。

それでも意味が変わる点

従来モデルが見つけていたのは実装の誤り(プログラマがアルゴリズムを使う際の誤り)だった。今回はアルゴリズムの数学的性質そのものである。2年・2ラウンドの専門家レビューを通過した候補方式に対し、60時間で既知最良攻撃を改善した。

この記事の帰属

以下の事実はすべて Anthropic の発表に基づく。独立した第三者による再現・査読は本稿執筆時点で完了していない。ただし論文2本・デモコード・思考過程が公開され、HAWK の著者と NIST のメーリングリストへ事前開示されており、検証可能な状態にはある。

2何が変わったのか

能力の所在が、コードの層からアルゴリズムの層へ移った。

従来の到達点 ソフトウェア実装の脆弱性を 自律的に発見・悪用 対象:暗号ライブラリのコード 原因:プログラマがアルゴリズムを    使う際の誤り 例:OpenSSL / wolfSSL の CVE 拡張 今回示された到達点 アルゴリズム自体の数学的欠陥を発見 HAWK ポスト量子デジタル署名 NIST 追加署名 第3ラウンド候補 格子の未活用の対称性を発見 → 鍵強度が実質半減 7ラウンド版 AES-128 共通鍵暗号の研究用簡略版 (本番は10ラウンド) 新技法 Möbius Bridge → 既存最良比 200〜800倍
図1:従来の発見は暗号ライブラリの実装ミス(OpenSSL・wolfSSL の CVE など)だった。今回は、コードが正しくてもアルゴリズムの数学的構造に弱点があるという水準の発見。

32件の比較——自律性の水準が異なる

この報告で最も誤読されやすい点。2つの結果は発見のされ方がまったく違い、人間の関与の中身も異なる。原文の総括は「大部分は自律的に、大部分は人間の介入なしに達成された」である。

自律性 人間主導 完全自律 HAWK — 半自律(semi-autonomously) エージェント型ハーネス上で複数のワーカーが協働。Python・Sage と既発表論文にアクセス 人間の関与:アイデアの記録方法の助言、検証に使うライブラリの選定といったプロジェクト管理に限定 操作者は理論計算機科学の素養はあるが、格子暗号の専門家ではない AES — ほぼ完全自律(almost entirely autonomously) 人間が構築したスキャフォールド上で、仮説の提示・実験・検証を自律実行 3日間で与えられた実質的なプロンプトは 3 件のみ。数億トークンを自律出力し、最終的に累計10億トークン 当初は「不可能だ」として着手を拒否。人間の 1 通のメッセージを受け、Claude 自身がハーネスを書き換えた
図2:HAWK は人間の研究者と協働、AES はスキャフォールドを与えたうえでほぼ全自律。なお脚注によれば、AES を攻略したのと同じスキャフォールドで HAWK の攻撃も再発見できたという。
 HAWK7ラウンド版 AES-128
対象ポスト量子デジタル署名方式。NIST 追加署名公募(2022年)の第3ラウンド残存候補2001年に NIST が採用した共通鍵暗号の、ラウンド数を減らした研究用の版
結果鍵強度が実質半減。HAWK-256 の鍵回復コストは 264 と考えられていたが 238 と実証既存最良の中間一致攻撃を 200〜800 倍高速化(測定法により幅)
機構格子同型問題に基づく安全性。格子中の未活用の対称性(非自明な自己同型)を発見新しいフィンガープリント法 Möbius Bridge。先行手法が総当たりしていた1段階の推測を不要にした
自律性半自律。人間の関与は非技術的な方向付けとプロジェクト管理ほぼ完全自律。実質プロンプト3件
所要発見・開発・検証あわせて約60時間着想に約1週間
検証端から端まで実行可能なため検証は容易研究者2名が確信を得るまで約1ヶ月
費用各成果あたり API 費用 約10万ドル
「Mythos Preview は、これらの結果を大部分は自律的に、そして大部分は人間の介入なしに達成した。1週間の期間で、Anthropic の研究者1名が Claude と協働して HAWK 攻撃を開発し、別の研究者が Claude に AES 攻撃を完全に自律的に発見させるスキャフォールドを構築した。」 — 原文 Introduction より

4HAWK に対する結果

2年・2ラウンドの専門家レビューを通過した候補方式に対し、60時間で既知最良攻撃が改善された。

専門家による人間レビュー 2年・2ラウンド 2022年 NIST 追加署名公募 第3ラウンド残存候補 2ラウンドを通過し現在も審査中 Mythos 60時間 改良攻撃を発見 2026年6月に著者へ開示 HAWK-256 の完全鍵回復に要する想定コスト 従来の想定 2^64 Mythos の実証 2^38 ※ 攻撃は依然として指数時間であり、多項式時間ではない。鍵長の大きい版は現実的に攻撃できないままである
図3:棒は指数の大きさを表す(対数尺ではなく指数そのものの比)。実務上の含意は「同等の安全性を得るには鍵長を2倍にする必要がある」こと。
攻撃の中身

HAWK の安全性は「格子同型問題」の困難さに基づく。Mythos は、HAWK が使う格子の中に、これまで活用されていなかった対称性(非自明な自己同型)を見つけた。先行研究は「そうした自己同型を効率的に見つけられれば攻撃が成立する」ことを証明していたが、HAWK の格子で実際に到達可能かは未解決だった。そこを埋めた形になる。

実務上の帰結

同等の安全性を保つには鍵長を2倍にする必要がある。しかし鍵長を2倍にすると、HAWK が有力なポスト量子署名候補である理由の多くが失われる——署名・鍵のサイズが小さいことが同方式の売りだったため。候補としての評価に直接影響する結果といえる。

多エージェントの挙動

鍵となる着想は、2体のワーカーエージェントの相互作用から生まれた。片方はその案を「実現不可能」と早計に棄却したが、もう片方が活用する方法を見つけた。両者はメッセージを交換し続け、最終的に有効な攻撃であることで合意したという。

自己検証

攻撃を見つけた後、Mythos は自ら端から端までの検証パイプラインを実装し、自分自身と人間の操作者の双方に対して正しさを示した。この「実行して確かめられる」性質が、後述する AES との検証コストの差を生んでいる。

波及範囲についての明示的な限定

原文は次のように明記している。「これは HAWK に固有であり、他の NIST ポスト量子署名候補や、格子ベース暗号一般には影響しない」(脚注でも重ねて記載)。ポスト量子暗号全体が揺らいだという読み方は、一次情報が明示的に否定している。

標準化プロセスの前例

NIST の提案は、配備前に広く欠陥を見つけてもらうために公開される。プロセス後期の重大な発見は前例がなくはない——ML-KEM / ML-DSA の標準化過程では複数の競合提案が安全でないと示され、候補の一つ SIKE はラップトップ上で1時間のうちに完全に破られた

5ラウンド削減版 AES に対する結果

対象は AES-128 の全10ラウンドのうち7ラウンドに減らした版。実際に TLS 等で使われているフル仕様の AES ではない。

AES-128 のラウンド構成(本番仕様は10ラウンド) 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 攻撃対象:7ラウンド版(研究用の弱められた版) 攻撃は及ばない Möbius Bridge が改善したこと 中間一致攻撃の系譜を拡張する新しい フィンガープリント法 先行手法が総当たりで列挙していた1段階の 推測を不要にし、他の最適化と組み合わせて 既存最良比 200〜800倍の高速化 なぜ実務影響がないのか 脅威モデルは選択平文攻撃。先行研究は 2^105 個の選択平文を仮定している =そもそも完全に実行不可能な設定であり、 攻撃コストを定量化するための枠組み 実装しても数億ドル規模の費用がかかる
図4:暗号研究では、フル仕様を直接破る前にラウンドを減らした版で攻撃技術を探るのが標準的な手法。将来フル仕様へ一般化しうる技術の萌芽を測り、フル仕様の安全余裕を見積もるために行われる。
見出しと実態のずれ

「AI が AES を破った」と要約されがちだが、対象は10ラウンド中7ラウンドに削減した研究用の版であり、フル仕様の AES は破られていない。攻撃前提の 2105 個の選択平文という数字が、実行可能性の水準を示している。原文も脚注で「実装しても数億ドル規模の費用がかかり、他の類似暗号方式には影響しない」と明記している。

6公表された他の結果

主要2件の後、探索範囲を広げて得られた予備的な成果も併せて報告されている。期待値を調整するうえで有用な情報。

対象結果位置づけ
LEA
ISO/IEC 29192-2:2019
13ラウンド版の鍵を 230 未満の暗号文で回復し、現代のデスクトップ上1時間以内に完走する実用的攻撃。既存最良は 298 の平文対と 286 の計算量 実際に動く攻撃。ただし完全版は24ラウンドで適用外
Serpent-128 6ラウンド版に対する実用的な完全鍵回復攻撃。既存研究は 270 超の平文対と 290 の復号を要していた 完全版は32ラウンドのため影響は限定的
Salsa20 / Poseidon / SHA-1 いずれも改善は限定的(10倍未満の効率化) 現時点では有力な結果ではない
CryptanalysisBench ETH Zurich・Tel Aviv 大学・TU Berlin と共同で構築した、LLM の暗号解析能力を測るベンチマーク 第三者が同種の検証を行える基盤

※ LEA の完全な結果(必要な平文対の正確な下限、鍵による難易度差、14ラウンドへの拡張)は、追加調査後に公開予定とされている。

7発見と検証の逆転

原文の結論部が最も重視している論点。人間が律速になる場所が、発見から検証へ移りつつある。

AES 攻撃:発見と検証に要した時間 Mythos による発見 約1週間 研究者2名による検証 約1ヶ月 研究者は暗号の専門家ではなく、正当性を確認するために暗号研究を学ぶところから数百時間を費やした HAWK は検証が容易だった 端から端まで実行できるため、鍵を選んで回復を確かめられる AES は数学的主張の検証が必要だった 実行できる攻撃ではないため、正しさは論証で確かめるほかない
図5:検証の容易さは「攻撃が実際に走るかどうか」で決まる。実行可能な攻撃(HAWK・LEA)は確認が速く、数学的な主張にとどまる攻撃(AES)は人間側の負担が大きい。
「言語モデルが自律的に新規の研究成果を生み出すようになるにつれ、人間の研究者はそれらの成果を技術的妥当性・新規性・有用性の観点から検討し検証することで律速されるようになるかもしれない。」
「サイバーセキュリティのコミュニティは今、言語モデルがあまりに多くのバグを発見するため、脆弱性のトリアージ・検証・修正といった標準的な人間のプロセスが追いつかないという事実に直面しつつある。学術的な暗号研究でも同じことがまもなく起きると我々は予測する。」 — 原文 Conclusions より

8確認されなかったこと・限界

この事案を引用する際、以下を併記しないと実態より大きく描くことになる。すべて一次情報が明示的に述べている事項。

一次情報が明示的に否定している事項
  • いずれの結果も現時点で本番システムに影響しない。変更を要する製品ソフトウェアはない
  • HAWK の結果はHAWK に固有であり、他の NIST ポスト量子署名候補や格子ベース暗号一般には影響しない
  • HAWK への攻撃は依然として指数時間であり、多項式時間では動かない。鍵長の大きい版は現実的に攻撃できないまま
  • AES への攻撃はフル仕様を破っていない。実装しても数億ドル規模の費用がかかり、他の類似方式にも影響しない
  • LEA への攻撃は完全版の24ラウンドには適用されない
  • 著者自身が、両主要攻撃を「想定内の結果」と位置づけている
開示されていないこと

脚注によれば、公開された思考過程は多数の自律セッションのうちの1つであり、「多くのセッションは新しい発見に至らなかった」とされている。成功率は開示されていない。したがって「同じ手法を向ければ常にこの水準の成果が出る」とは読めない。なお、公開された思考過程の文書は、読みやすさのため Claude 自身が詳細を加えて書き直したものである。

開示プロセス

学術関係者に相談して結果の妥当性を確認し、米国政府および産業界のパートナーへ事前に写しを共有している。HAWK の結果については2026年6月に HAWK の著者へ攻撃を共有し、公開と同時に NIST の公開メーリングリストへ調整開示した。論文2本・思考過程の文書・デモコードが公開されている。

9示唆

※ 本節は上記の事実から導いた編集部の解釈であり、一次情報に明記された結論ではありません。

経営層への要約

本番の暗号化通信や署名が直ちに危険になったわけではない。一方で、フロンティアモデルが数十時間・十万ドル規模の投入で、2年の専門家レビューを通過した方式に意味のある攻撃改善を出せる段階に入った。暗号方式の選定・移行計画を持つ組織は、評価の前提を「専門家レビュー済み=十分」から「継続的に再評価されるもの」へ移す時期にある。

ボトルネックの移動

この報告で最も再現性が高そうな示唆は、能力の高さそのものより検証の負担にある。実行できない数学的主張は、人間が論証で確かめるほかない。AI 活用を検討する組織は、生成能力と同じだけ検証体制に投資できるかを先に考える必要がある。

自律性の読み方

「実質プロンプト3件」は強い数字だが、スキャフォールドの構築と標的の選定(AES-128 の7ラウンドを狙う)は人間が行っている。また当初モデルは「不可能だ」として着手しなかった。問題設定と粘りの指示は依然として人間側の仕事である、というのが現時点の実態に近い。

見ておくべき次の材料

両論文の査読と第三者による再現、NIST 追加署名 第3ラウンドにおける HAWK の扱い、CryptanalysisBench 上で他モデルが同水準に達するか、予告されている LEA の完全な結果。特に第三者再現の結果は、本稿の前提そのものを更新しうる。